ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

「は、はぁ」

これまた予定通りに浮かない顔を装った夫が口ごもると、その太腿を咲美がテーブルの下でまた抓る。何も言うな、という合図だろう。

妻の要請がなくとも、そのつもりだった。口を噤んでからも狼狽えている演技を続け、藪沼夫妻が一方的に話を振ってくる、という形式を堅持する。

「私も最初は色々偏見がありましたが、今では感謝してますの」

桂子のどこかセレブ気取りな声に、まだ俯きがちの咲美が「信じられない」といった表情に変わった。間髪容れずに藪沼が本題へと切りこむ。

「実はあの店は夫婦同士の出会いの場でもあるんです」

咲美の動揺が明らかに膨らんだのが、泳ぐ眼から見て取れた。さも彼女と同じ立場であるように装って、智が大げさな声を出す。

「出会いの場!?」

「スワッピングってご存知ですか?」

またも繰りだされた魅惑の響きに躍る胸を宥めすかしながら、隣席の愛妻と顔を見合わせる。彼女は顔の曇りを一層濃くして、唯一この場で頼れる夫に向け、不安と居心地の悪さを訴えかけていた。そんな彼女への対応に困るそぶりを演じた後。

「一応……聞いたことはあります」

白々しい嘘をつく。

「夫婦円満の最高の特効薬は、〝嫉妬〟なんです」

被さるように藪沼の言葉が続く。

己の経験に照らし合わせて納得せざるを得ない夫に対し、咲美はただただ茫然と聞き流し、早く終われと願っているようだった。

藪沼夫婦と別れ、娘の智美を実家に迎えに行く途中も、咲美は終始不機嫌だった。

ようやく智が咲美と落ち着いて会話できたのは、娘を寝かしつけて、しばらく経った深夜零時過ぎ。寝間着姿で寝室のベッドに並び腰を下ろして間もなくのことだった。

「今日はごめん。よりによって藪沼と会うなんて」

今日幾度目かの謝罪をした夫に対し。

「別に謝らなくていーよ。偶然なんだから」

そう言いながら、咲美の怒りは収まっていない。それは表情や態度から明白だ。

「でも信じられない! 何なの、夫婦交換って」

(やっぱり、そこだよな……)

案の定の反応。咲美は、会食中に藪沼が説明したスワッピングという性癖について腹を立てていた。

「スケベだってのは前から分かってたけど、あそこまで変態とは思わなかった」

娘が眠るまではと我慢していた分、余計に今、怒りが再燃しているらしい。

彼女の性分を考えれば、こううなるだろうことは予想に難くなかった。

(それでも、告げる必要はあった)

咲美に、スワッピングという性癖の存在を知らせ、意識づける。そのために藪沼夫妻と出くわす流れを設え、藪沼の口から「勃起不全経験者で、それがスワッピングという刺激を得ることにより改善した」という、嘘の筋書きを語らせた。

直球を咲美にぶつけるのが賭けであることに違いはなかったが、妄想を実現化するためには避けて通れぬ道でもあったのだ。

(物事は最初にハードルを上げておいたほうがいい)

その分、後々の展開が楽になるからだ。現状は、まだ最初の高いハードルを越えられていない。しかし、ハードルを越えるための素地ができたのは確かで、その意味では今夜の一件は成功と言える。

ただ、やはり咲美の中で藪沼に対する嫌悪感は増大したようだ。それこそ夫の妄執を勢いづかせる火種であると知らぬまま、咲美は藪沼への嫌悪を吐き出し続けている。

「でも……あれって、当たってるかも」

自身が怨嗟を巻いているさなかに発せられた夫の言葉の意味が瞬時には理解できず、二度三度、瞳を瞬かせた後。咲美は殊更驚いた表情で「えっ!」と短く声を上げた。

「その……嫉妬ってやつ? あれ、もしかすると僕にも当てはまるかな……って、思えちゃって、さ」

男の精力回復には〝嫉妬〟がもっとも効果的と、藪沼は説明した。実際は智の与えた筋書きに沿い語ったのだが、とにかくそれを、場に居合わせた咲美は聞いている。

つまり、夫の精力を回復させたいならヤキモチを妬かせるのが一番だと理解した、はずなのだ。

「智!」

夫の話を遮るように、咲美が声を荒らげる。膝の上でぐっと握り拳を作っていることからも、堪りかねている様子がありあり伝わった。

その様子から、智は先の想像が当たっていたと確信する。

「まさか、スワッピングとかってのに興味湧いたんじゃ……ないよね?」

あるわけないって。当たり前じゃないか。そんな言葉を期待して発せられた咲美の言葉に対し、夫は無言を貫くことで答えとした。

「ねぇ、智っ。違う、よね?」

焦れる咲美が、詰問口調で問い直す。なお無言で見つめ返す智の手が、彼女の肩に触れると同時に押した。

「……えっ。や、やだ、ちょっと智っ!?」

ベッドに押し倒された咲美が抗議の声を上げる。今は真剣に話しているのに、と。キッと睨みつけてくる瞳が物語っていた。

「ちょっと、どうしたのよっ」

それでも真っ先に理由を尋ね、揺らぐ眼差しで夫を案じてくれる。

「な、なんかさ、なんか、なんだか分かんないけど」

その夫は、狼狽える演技を敢行しつつ、罪悪感を凌駕する昂奮に支配されていた。

「とっ、智っ、あ……っ!?」

覆い被さってきた夫の重みに小さく呻いたのも束の間。夫の寝間着の股間前面部を押し上げる、硬く熱々に滾った隆起物の存在を確かめて、咲美の目が驚愕に見開く。