ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

聞きかじりでしかないがゆえにどこまでが真実なのかはわからない。なれどいかがわしい雰囲気を醸す歓楽街の只中に在る事実に、藪沼の態度も鑑みれば、当たらずとも遠からずといった所だろう。

結論づけてしまうと、自然と智の視線は藪沼の連れている女性へと向かった。

近くで見ると余計に派手な容姿が目につく。濃いメイクのせいで判断し辛いが、歳の頃は三十を超えるかどうかといった所だろう。顔はぎりぎり美人の部類と言える程度で、愛想もある。が、それは明らかに商売用のものとわかる作り笑い。日々妻の屈託のない笑顔を見ている智の目には、酷く空虚なものとして映った。

「ぁん。もう。ちょっとぉ」

彼女は延々尻を撫でる藪沼に対し、言葉と表情、身振りも交えて嫌悪を示している。

なのに、同調するように尻を悩ましく揺らしてもいた。男の手管に順応してくねる腰つきからも、嫌と告げながら時折熱い息を吐くぽってりとした唇からも。男と絡み交わることに馴れているのが伝わる。

今いる場所が歓楽街とはいえ道端なのを忘れそうになる。そんな非日常的な光景から目を背けると共に、智の胸中でより一層藪沼への嫌悪感情が積もった。

(愛人か、風俗嬢か。とにかく金で買った女と連れ立って、いかがわしい店を楽しんでいたのだ、目の前のこの男は!)

藪沼は既婚者だと、咲美は言っていた。奴がそわそわとしているのは、浮気現場を見られた心苦しさゆえに違いない。そのくせ、未だ満足してないとでも言いたげに、執拗に連れの女の尻を撫で繰り続けている。

藪沼という男のネチネチとした性分、性欲の強さを垣間見た気がして、むかつきを通り越して、えずきたい思いに駆られた。

「それじゃ……」

苦虫を噛み潰したいのを堪え、能面めいた無表情を繕って会釈する。形ばかりの礼儀を通しておいて足早に立ち去ろうとしているのを、察したからなのか、どうなのか。

「──実は、うちは妻公認なんですよ。妻はこの女性の旦那と先に出て行ったところでして」

藪沼は理解しがたい一言を、去りかけの背に向けて放ってみせた。

「……えっ」

男の言葉の意味するところを即座には理解できず。なのに、智は振り返ってしまった。そうして、藪沼のニタつき笑いに出迎えられ。

「いわゆるスワッピングというやつです」

続け様に奴が発した言葉。そこに含まれる単語に、頭をハンマーでぶん殴られたような強い衝撃を受けた。

スワッピング。それがパートナーを交換する異常性癖であるということは、知っている。ただ知識として有するのみの、自分とはついぞ関わりのない世界の話だと思っていた。その非現実感と、眼前の男の自慢げな態度。二つが組み合わさることで、得体の知れぬ不安が智の内に生じる。

(この男はおかしい。変態だ。そんな奴の話にこれ以上つき合っていてはいけない)

一刻も早く立ち去るべきだ。そう、心臓がひっきりなしに警鐘を打ち鳴らしているにもかかわらず──。

「おや、興味がおありで?」

ニタつき笑いをやめない藪沼の瞳が一瞬、見開いた。この男はまだ何事か語るつもりだ。そう理解した途端。

智の足は、地に縫いつけられたかのように動けなくなった。それが奴からの問いかけに対する答えとなると知りながら、唾を飲み、目を剥いて、藪沼の卑しい面を見つめてしまう。

「い、いえ」

自身の発した返事がうすら寒く感じられるのに驚き固まる智の眼前で、女の尻を撫でながら藪沼がにんまりと口角を上げる。

相対する男の動揺を嘲笑っているのか。それとも、ただ自慢したいだけなのか。判別する暇もなく、智はまず、己の胸の内の把握に追われた。

(男の言葉が耳慣れなかったから、立ち止まっただけだ)

その程度の興味。それ以上の意味など、ありはしない。

(当たり前だ。どこの世界に、愛する妻を他人へ差し出して悦ぶ馬鹿がいる。少なくとも僕は、そんな変態性癖に理解はないし、したいとも思ってない)

理性に照らし合わせて結論を得ると、胸中に藪沼への蔑みがひしめいた。藪沼がこのような行為に耽れるのは、妻を愛していないからに他ならない。

(そうに決まってる……!)

だが、藪沼の異常性癖を忌み蔑む一方で、智は我が内より湧き出る感情がそれだけではなく、得体の知れぬ何かを含めているような予感に囚われてもいた。それがなんであるのか、究明を試みるほどに、困惑と混迷が増長する。

心の葛藤をよそに、前のめりとなった身体は聞きの姿勢を明確に打ち出している。

そんな智の動向を、細い三白眼で余すことなく捉えておきながら。

「こりゃ、お若い夫婦に失礼でしたな。どうか奥さんには内緒で。ハハハ。失礼しました」

藪沼はまったく心のこもってない謝罪をして、話を切り上げ、背を向ける。

「待っ……」

智は思わず出かけた言葉を呑みこみ、呆然と、水商売女性と共に去りゆく男の背中を見送ることしかできなかった。

奴の背中が視界から消えた後、改めて酔いを醒まそうと首を二度三度左右に振る。

「……咲美……」

誰に言うでもなくつぶやいた名と共に、頭に浮かんだ愛妻の笑顔が、なお焦燥を呼びこむ。早く妻の顔を見て、安堵したい。妻と子の待つ温かな家庭に戻れば、藪沼の話など、瞬時に消し飛んでしまうはずだ。