「咲美、やっぱり僕は……」
夫の躊躇いを見て取った咲美が、身を寄せて言葉を紡ぐ。
「キス、して」
彼女の潤む瞳に魅入られたせいもあり、智の告げたかった言葉は、唾と共に喉奥へと滑り落ちていった。
「すぐに帰ってくる。そしたら、あたしの身体を綺麗に洗って」
揺るがぬ瞳での意思表明を受けて、ひたすらに彼女の、もうじき他人に穢される身体を抱き締める。
(どうして。どうしてこんなことに)
──すべて、己で撒いた種。成るべくして成った状況だ。
悔いる一方で、もう一人の己が囁きかける。
(咲美の愛を失うのが怖かった。咲美の決意を思えばこそ、止められなかったんだ)
──否。禁忌の妄執が現実となる、そのことを恋い焦がれているからさ。
囁きを否定しきれぬ理由が、今も股間の奥に点っていた。
咲美への恋慕以外を振り払わんと、彼女の唇に口づける。柔らかに受け止めてくれる唇の弾力、やがて染み出す唾液のぬめりと、吹きかかる鼻息の心地よさ。そのどれもがいつも通りに慕情をくすぐるがゆえに、なお一層の哀しみがこみ上げてくる。
「……ふ、ぅんん……」
咲美の方から舌を絡めてきた。いつにない出来事も、不安を掻き消したい一心の表れと思えば、なおのこと手放したくない想いが膨らむ。
(藪沼もこんな風に……)
咲美の舌に絡みつき、吸うのだろうか。振り払いきれなかった卑しき想像に憑かれながら、愛妻の舌を舐り、滴る唾を啜った。喉に流したその味わいはやはり愛しさを増長させ、名残惜しさが胸を衝く。
けれど、息が続かなくなったことで、長い長い接吻は終わりを告げ。離れた唇同士を、唾液の糸が繋ぐ。それも、すぐにぷつりと途切れてしまった。
咲美は夫の顔を仰ぎ、微笑んだ。夫が愛してやまぬ、優しい笑顔だった。
(こんな時くらいは、笑ってくれなくていいんだ。無理しなくて、いいんだよ)
微笑んだばかりの彼女の頬に涙が伝う。それを見て、智の目からも涙がこぼれる。
夫婦は共に泣きながら、改めて長い、長いキスをした。
その後、ひと気のない廊下へ出て、夫と肩並べ歩く間も。エレベーターの扉が開き、一人乗りこむ際も。咲美は一言も発さず。
最後に振り返った妻にかける言葉が、智の内にも見当たらない。
(何か、言わなくちゃいけないのに)
おそらく夫婦互いに同じ想いに駆られながら、わずかばかりの静寂を過ごす。見つめ合う視線から汲み取れるものがないかと足掻く二人を嘲笑うかのように、無情にも扉は閉じてしまった。鉄の箱が、愛妻を間男のもとへと運んでゆく。
なすすべなく見送った智の胸中に、猛烈な不安が巡る。
それが禁忌の恍惚に繋がる可能性があると知っていても、溺れる気には、今はどうしてもなれなかった。
4
部屋に戻って一人静寂に耐えることなど、できそうにない。智はまずロビーを訪れ、備えつけのソファーに腰を下ろして、辺りを見回した。残念ながらロビーには従業員以外の姿がなく、喧騒によって気分を紛らわせることが叶わない。腕時計の示す時刻は、二十二時十分。咲美と別れて、まだ、たったの十分ほど。
(今頃、藪沼と咲美は一つ部屋の中で……ッッ)
想像しようとした瞬間、眩暈に見舞われた。
時間の経過が恐ろしく遅い。早く過ぎ去ってくれと願う一方で、今まさに藪沼の手に咲美が落ちんとしているのだと思うと、時よ戻れ、せめて止まれとも考えずにいられない。
そわついていると、周囲の少ない目すら気になった。居た堪れなくなって移動する。足が向いた先に、ラウンジバーがあった。
入店早々に強めの酒を注文し、一気に喉奥へと流しこむ。
カップル客。ファミリーっぽい客。会社の同僚同士と思われる客。周囲は皆楽しそうに飲んでいて、カラオケを歌う者もいる。
自分だけが、一人だった。
気を抜くとまた嫌な想像に襲われそうで、ひたすらに杯を傾ける。夕食にあまり手をつけていなかったこともあり、アルコールが覿面に効く。視界が眩み、店内の照明が回る。いつしかカウンターに突っ伏し、眠りの世界へといざなわれていった。
「お客さん……お客さんっ」
どのくらい眠っていたのか。意識を取り戻すと、白髪まじりのバーテンダーに肩を揺すられていた。
「申し訳ありません。もう閉店になるんですが」
あまり申し消さなそうにない顔で、老人は告げた。
腕時計の指し示す時刻は、午前一時をとうに過ぎている。
(……咲美ッッ!)
背に奔った悪寒によって、瞬時に意識が現実へと引き戻された。
寝過ごすことで長い煩悶を免れたという事実。その煩悶をこそ恋しがり再び疼き始めた股間の浅ましさ。
それらよりもずっと強く、咲美が戻ってきているのか。戻ってきているなら早く会いたい。約束の通りに身体を洗ってやらなければ、との想いが胸を衝く。
(早く、戻ってやらないと……っ)
精算を済ませ、廊下に出て、ふらつきつつも寝所への道を戻りゆく。
(咲美……咲美っ)
泣いてはいまいか。また、無理して笑っているのではないか。妻の胸中を思うほどに気ばかりが逸る。酔いもつれた足取りが呪わしい。
焦燥にせっつかれながら可能な限り駆けること、数分。ようやく覚えのある部屋にたどり着き、鍵を開ける。自分以外のスリッパがないのを視認してから部屋に入り、がらんとした和室を見回して、腰が砕けた。