ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

手を組もうとしている。事実を噛み含めるほど、自己嫌悪が胸を衝く。

「それで、いったい今日はどういうご用件で?」

藪沼は、その無神経さゆえに智の胸中に気を配ることもなく。締まりのない唇から、早々に本題を切り出した。

(本当に、これでいいのか?)

前もって用意してある返答を奴に与えてしまってよいものか。今日に至るまで数知れず重ねた煩悶に再び苛まれる智を、じろり。藪沼の濁った眼がねめつける。

「ひょっとして……興味湧きましたか?」

奴の目尻にはすでに、こちらの意図を見透かしたかのような笑みが浮かんでいた。無神経だが、相手の心中を察せられぬわけではないらしい。意外な洞察に驚き、智が身も心も強張らせていると、機を逃さぬとばかりに奴が畳みかけてくる。

「それとも私の早合点ですかな?」

ビール臭い息を吐きかけながら、助平なヒソヒソ声で、とうとう奴は例の言葉を口にした。

「ス・ワッ・ピ・ン・グ! ……興味、湧いたんでしょう?」

脂ぎった顔をますますテカテカと光らせ、喉から空気を漏らすような不気味な笑い声を出し、詰め寄ってくる。そうした奴の剣幕に誘引されたがごとく。出そうか出すまいか惑っていた返答が、智の喉より漏れ落ちる。

「え、ええ、まあ……」

ついに、言ってしまった。強い後悔と、著しい解放感。相反するはずの二つを同時に味わいながら見つめた、話し相手の表情は──。

「そうこなくっちゃ、浅岡さん!!」

嬉々とたるみきっている。その分厚い唇が酒臭い息を吐きつけて、さらに続けた。

「人生は楽しむもんです。いくら仲のよい夫婦でも倦怠はやって来るんですから」

(別に、咲美と倦怠期に入っているわけじゃない!)

思わず反論したくなるほど、男のだらしのない笑顔が目障りだ。

「そう深刻にならず! 海外では夫婦円満の妙薬みたいなもんで、それなりの市民権を得てるんですよ」

奴は堰を切ったように早口になり、わかったような、わからぬような理屈を並べ立ててゆく。喜色満面の表情は、まるで獲物を前にした赤鬼だ。

「うちら夫婦はそれなりの経験積んでます。悪いようにはしませんよ。ぜひお相手させてくださいよ!」

ついに切り出されたその言葉に、ドクン、と心臓が大きく音を立て、酔ってもいないのに頭が眩む。研ぎ澄まされた意識だけを頼りに、智は藪沼の顔と向き合った。

「パートナーになりましょうよ!」

(まだ今なら、やめられる。踏みとどまるなら今だ。いいのか? こんな奴に、咲美を……大切な妻を、抱かせる……なんて……っ)

受諾してしまえば、もう戻れない。娘を抱いた咲美の顔が一瞬浮かんだ。

──咲美を愛している、愛しているからこそ、僕は──また、手前勝手な理屈に背中を押されて──。

「は、はい、よろしく……お願いします」

ハッとなった時にはもう、独りでに唇が言葉を紡いでいた。

「いやぁーっ! 嬉しい! 旦那さんありがとうございますっ! こりゃなんていい日なんでしょう! よっしゃ、今日は前祝い、私のおごりです。さ、飲んだ飲んだ!」

虹彩のありかが覗けぬほどに目を細めた藪沼が、奇声じみた響きで喜びを表す。そのあまりの大声に、周りの客が一斉に振り返った。

「ところで、奥さんにはこの話は?」

注目を浴びているのに気づき、今さら顔を寄せてきた藪沼が耳打ちする。

「いえ。……まだ、何も」

返答を得た藪沼は、しばらくクチャクチャと口を動かしていたが、いきなり智の太腿をパチンと叩くと、こう言った。

「旦那さんの腕の見せ所ですよーっ。アサオカちゃん、いや失敬、奥さんは真面目そうですもんね」

咲美が、藪沼の『アサオカちゃん』という馴れ馴れしい呼び方を嫌っていたのを思い出す。夫の立場からしても気持ちの良い物であるはずがなく、それがそのまま顔に出た。ムッとなった顔を確かに目端に留めておきながら、藪沼は急いた心情そのままに早口で綴る。

「いっそのこと、私たち夫婦と四人でお会いしませんか。説得しますよ」

そんなに簡単に事が進むなら、苦労はない。無神経な男だ、との幾度目とも知れぬ確証を得る。

「アルコールでも入れて、その晩のうちに、って手もあります。少々強引ですが」

(何を言ってるんだ、こいつは。人の妻を何だと思ってる!)

咲美は、断じてそんな手に堕ちる女ではない。その辺の馬鹿な小娘とは違うのだ。

だが、図に乗り始めた藪沼の品性のなさを痛感するほどに、咲美を穢される妄想は捗った。嫉妬に相乗して漲る咲美への情愛が、頭の芯を痺れさせ続ける。

「いや、藪沼さん、咲美は用心深いんです。強引にやるのは無理だと思います」

語る声に動揺がにじまぬよう留意しつつ、紡ぎだす。

「実は……僕なりに色々と考えたんですが……」

「ほぉ……。んむっ、ははぁ、なるほど……」

智が、散々考え抜いた方策を淡々と、目だけに熱意を潜ませて述べゆく間。藪沼は、終始口の中に物を頬張り続け、合間合間に相槌を打つばかりだった。

結局、一切合切、智の立てた計画通りに事を進める運びとなり、小一時間ほどで最初の密会は終了した。

(同性の自分から見ても藪沼という男からは何一つ、好感は得られなかった)

思い返すたび、悩ましさが募る。あんな男を、咲美に受け入れさせるのは至難の業だ。それでも決意は鈍らない。