ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

よくよく見ねば開いているのかどうか判別しがたいほどの三白眼に、右鼻孔そばに瘤のついた鷲鼻。厚い唇の横には大きなホクロもあった。さらには顔中にクレーターのようなブツブツの出来物が敷き詰められている。

それらだけでも生理的嫌悪を催すというのに、イヤらしい──そうとしか形容しようのないニタつき笑いまで浮かべているのだから、堪らない。一目見れば記憶にこびりつき、夢に出て来そうなほど、悪い意味で印象を残す面構えだ。

(この顔、どこかで……)

強烈なインパクトをもたらす相手の顔を見つめるほどに、智の中で、この顔を見るのは初めてではない、との思いが強くなる。確かに、見覚えがある。

けれど、どこで見たのだったか。智の、酔いの回った頭が答えを出すよりも早く。

「どうも。こんばんは、浅岡さん」

機先を制するように、あちら側から声をかけてくる。

(……!?)

名字を知られていることに驚き、目を剥いて強張ってしまった智を視認したにもかかわらず、自身の狼狽えを隠すためだろうか、男の早口は止まらない。

「いやあ、まずいとこを見られちゃいましたな。いつも奥さんにはお世話様でございます」

終始腰の低い、けれどどこか粘着質な嫌らしさを感じずにいられない口調で挨拶される。その言葉に含まれる「奥さん」という単語が、答えを引き出した。

苦虫を噛み潰したような咲美の表情と共に智の脳裏に浮かび上がったのは──。

(……ヤブ……ヌマ? ……やぶぬま!)

少しバツの悪そうな表情を形作ってみせている相手の名を思い出すのと同時に、その名を初めて聞いた時の記憶が智の脳裏に甦る。

(たしか、咲美がスーパーに勤めだして間もない頃だった──)

「サイアク。あいつ」

それは、咲美にしては珍しい苛立ちと嫌悪の詰まった音声で紡がれた。

「え?」

「ヤ、ブ、ヌ、マ!」

おう返ししたばっかりに、とばっちりを食ったのも思い出す。

「ヤブ……? あぁ。たしか、スーパーの副店長さんだっけ」

前日までは「副店長」と呼称していたのが、とうとう今回は呼び捨てに降格している。その点からも咲美の怒りの程度が窺えた。

「毎日ぶちまけなきゃならんほど、アレな人なのかい?」

誰相手でも分け隔てなく接する妻に、これほど忌み嫌われている男──悪い意味で、興味が湧いたのを覚えている。

「何度やめてっていっても馴れ馴れしい呼び方してくるし。人が嫌がるのをわかっててよ!? 何度注意しても、ニタッと笑って悪びれないんだから。それだけじゃなくて、ベタベタ触ってもくるんだよ!? ……ほんとヤダ」

身震いしながら語気を荒らげ、心底からの嫌悪を表明する咲美。その様子を見るにつけ、聞いているだけのこちらまで嫌な気持ちにさせられた。

「どこの会社にも一人はいるよ、そういうオヤジ」

「智は平気なんだ、あたしがセクハラされても!」

まずは咲美をなだめて、と思ったが無理そうだ。

咲美が愚痴をこぼすほどだからよっぽどだ、と心配はしつつも、この時はまだ「どこにでもある、よくある話」という認識の範疇で考えていた。

(どこの職場にもある話だ。だから、「あまり関わらないように」と咲美に注意喚起した程度で、その時も話は終わって……)

それから数週間の後。早くに仕事が片付いたこともあり、車で咲美を職場まで迎えに行った折、今も眼前に立つ男の顔を初めて拝んだのだ。一瞥しただけだったが、その強烈な印象は今なお忘れることなく、智の記憶の隅にこびりついていた。

藪沼みき。半年前からパートタイマーとして咲美が勤め始めたスーパーの、副店長をしている男だ。

上の者には媚びへつらっているくせに、新人バイトなど、目下の相手とみるや偉ぶり、ネチネチと中身のない説教を繰り返す。身の程弁えず女好きで、セクハラまがいのことをされているのは咲美だけではないという。

話を聞くだけでも屑ぶりが窺えたが、実際まみえてみて、咲美の言葉に何ら誇張のなかったことが実感できた。

「浅岡さんのご主人ですよね?」

すでに心証最悪の男は、こちらの出方を窺うように細い三白眼でねめつけつつ語りかけてくる。その間、連れの三十路女性の腰に回した手を、もぞもぞと動かし続けてもいた。

(咲美にもそうやって、セクハラしてんのか!)

思わず怒鳴りつけたくなるのを堪え、当たり障りのない言葉を選び取る。

「あぁ、はい。……たしか藪沼……さん、ですよね?」

「こりゃ覚えていただいて恐縮です」

「いつも妻がお世話になってます」

互いに外面を繕った状態での白々しい対話が続くことに、智は終始辟易とするばかりだった。

「いえいえ、こちらこそ。しかし、とんだ場所でお会いしまして……」

男の言葉につられるようにして店を見上げた智の視界に、ネオン看板が映りこむ。

カップル喫茶・ラマン。それが、藪沼と連れの女性が先刻までこもっていたであろう店の名だった。

カップル喫茶なる店に入店した経験は智にはなかったが、どういった店であるのかについては、以前又聞きしてわずかばかりの知識を有していた。同伴席が設けられ、カップルが睦むひと時を過ごすための喫茶店。ただ手と手、肩と肩を寄せ合うにとどまらず、時と場合によってはより深い、性的な交流を伴うという話も耳にしていた。