ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

それから、さらに二週間。日々、桂子の話をする咲美の口調が明るくなっていくのを見てきて、機が熟したのを確信した智は、新たなステップに踏み出す決意を固めた。

平日午後。外回りの営業から直帰すると会社に伝えた智が、咲美の勤めるスーパーに向かう。パーキングに車を停めたのは、午後三時、三分前。

三時になるのを待ってから入店し、咲美の姿を探した。真っ先に彼女の持ち場である生鮮食品売り場へと足を運び、ぐるりと見渡す。広い売り場の中央付近、調味料の並ぶ棚の方から、誰よりも聞き慣れた声がした。

「い、いえ。本当に……悪いです」

咲美の、やや困惑した声だった。聞き耳を立てると、すぐに話し相手が桂子であると知れる。

「食べきれないくらいもらっちゃったのよ。大勢で食べたほうが美味しいじゃない」

「娘がいますし、その……夫も、帰りの時刻がはっきりしませんので」

口振りから、咲美が相手の申し出を辞したがっているのは明らかだ。それに気づかぬわけもなかったが、桂子は一向に食い下がる気配を見せない。今日の作戦が必ず成功するものと、知っているからだ。

「ご主人に電話してみたら? 親子三人でいらっしゃいよ」

桂子の口から自身を指し示す呼称が飛び出しても、棚向こうに立つ智の脚は歩みを止めたまま。

(まだだ。まだ、早い)

今日の作戦の立案者であり、取り仕切る立場にある不実の夫は、逸る胸を抑えながら、ベストのタイミングを計っていた。

「本当に、あの、申し訳ありません。また、別の機会にでも……」

咲美が、辞退の意思を重ねて伝える。

「そうですか。残念だわ。でも、無理強いしてもなんですわね。残念だわ。またぜひ、ご一緒しましょうね」

それにより桂子が話を引き取り、終いをつけた。

「いいえ、こちらこそ。ありがとうございます」

咲美は、ほっとしたに違いない。表情を窺えずとも、そのくらいは声の調子でわかる。きっと、肩の力を抜いて油断してもいる。

(……今っ!)

棚向こうで別れた女二人の内の一方の姿が、視界に入るか否か、というタイミングで、智の右足が前に踏み出す。

「あらっ!?」

ちょうど棚の角位置でかち合った相手は──桂子だった。濃い化粧で細かい所が読み取りづらいのと、普段から大仰な挙動が目立つせいもあって、彼女の驚きの演技に不自然さは見受けられない。

「あ……どうも」

咲美と桂子。いずれと出くわした場合もつつがなく進行できるように、策は練ってあった。打ち合わせ通りにぎこちない挨拶を交わした後に、桂子が動く。

「あらまあ、偶然! ちょ、ちょっと奥さん、浅岡さん! 旦那さんがいらっしゃってるわよぉ!」

桂子は騒々しいジェスチャーを添えて、先ほど別れたばかりの咲美を呼んだ。

売り場中に響くのではと思うほどの大声で名を呼ばれた咲美が、わずかに眉をひそめて振り返り。約束の午後五時よりも二時間早く現れた夫を見つけて、目を丸くする。

桂子は、まだ事態が呑みこめていない様子の咲美の元へ駆けるや、さらに捲し立てた。その間に距離を詰めた夫が、妻の顔を平素通りの装いで覗きこむ。

「と、智。約束の時間には、まだ早いみたいだけど……どうしたの?」

「うん。早くに仕事が片づいたんでね。直帰するって会社に伝えて、早めに来ちゃった。とりあえず顔見れたし、咲美の勤務終わるまで、近場で時間潰して待ってるよ」

前方を桂子の身体に塞がれた状態で夫を出迎えることとなった咲美の、動揺をひしひしと受け取りながら、当の夫は用意しておいた嘘を吐く。

さらに、咲美に勘繰る時間を与えぬよう、間を置かずに桂子が言葉を綴った。

「旦那さんは蟹、お好きかしら?」

「……え? ああ、はい。大好物です」

答えた夫の顔を見る妻の表情は、渋柿をかじったかのようにしかめられている。蟹が夫の好物であることを知っていればこそ、夫の訪れる前に桂子との話に終いをつけられたのを喜んでいただろう彼女の胸中に、今。夫の間の悪さを呪う趣が広がっているのは明らかだった。

(……これで、いい)

蟹を口実に藪沼の自宅に招かれるという、新たな段階に踏み入るため。「意図せず悪者になる夫」を演じる意義があった。

咲美の中で藪沼についての好感度が特に上がっているわけではない現況を踏まえれば、必然的に咲美を誘導する役目を桂子が負うことになる。先を思えばこそ、咲美の桂子に対する心証を、今ここで損なわせるわけにはいかないのだ。

「それじゃ、日程はこちらで決めさせてもらっても、いいかしら?」

無傷の桂子がにこやかに告げ、話を締めにかかる。

「あ、あの、っ」

言いづらそうに、咲美が口ごもった。

「あ、はい、よろしくお願いします」

妻が拒絶の意思を示さないのをいいことに、夫は受諾の意思を、言葉と頷きで重ねて伝える。

「それじゃ、また。都合の良い日を見繕って、明日にでも奥さんに伝えますね」

ぺこりと頭を下げて、機嫌よく桂子が去ってゆく。

準備を進める旨を告げられてしまった状況で、「やっぱりやめます」などと言えるはずもない。咲美は、見る間に遠ざかる桂子の背を見つめながら、しばし呆然と立ち尽くした後。

「もうっ。この、食いしん坊っ」

改めて夫に向き直り、ふて腐れたように頬膨らませ、そう言った。